「朝練って、走るんじゃなかったのかよ。」
 てっきりリレーの練習に付き合わされるのかと思っていたら、何故か奈津子のバスケットの練習を座って眺めているなう。
 土曜の朝。朝練に付き合ってほしいと呼び出された公園。時間どおりに来てみれば、奈津子はもっと早くから来ていたのか、バスケットコートでひとりシュートの練習をしていた。向こうからの約束とは言え、邪魔をするのも悪いので、声をかけてくるまで練習を眺めていることにした。
 上には学校指定のものではないジャージ。下は動きやすいように、ぴたっと貼り付いたスパッツ。まさにスポーツ少女らしいそれだろう。シュートを放ってはボールを拾い、何度もシュートを繰り返す。
「ごめんごめん、今日は練習ないからもの足りなくてさ。」
 こっちに気づいたのか、申し訳無さそうな笑顔を浮かべて歩いてくる奈津子。この公園はアレルゲンが少ないのか、マスクは着けていない。
「練習休みなのか?運動部って、土日でも朝から晩まで練習やってるイメージなんだけど。」
 素朴な疑問をぶつける。
「大会が近づくとやるけどね。あっても半日かな。うちはそんなに熱心にやっているわけじゃないし。」
「……そういうもんか。」
「……そういうもんだ。」
 にかっと笑う奈津子。狙ってない、人懐っこいところに男は弱い。
「どうする?もう行く?」
 行くというのはどういうことだろう。
「いいよ別に。好きなだけやれって。」
 自分は特に運動が好きなわけじゃない。満足するまでやればいい。
「そう?じゃあもう少しやってからにしようかな。……かずくんもやる?」
 奈津子が提案してくる。
「俺じゃ、おまえの相手はつとまらんよ。」
あいにくそっち方面は得意じゃないんだ。
「……そう。」
 少し素っ気ない返事。それだけ言うと、奈津子は練習に戻る。静かな朝の公園に、ボールの音だけが響く。

「くしゅんっ!!」
 奈津子のくしゃみで意識が覚醒する。どうも慣れない早起きをしたものだから、船を漕いでいたようだ。
「ずずっ……あー、だめ。くしゃみ出る。」
 若干の鼻声。田んぼに囲まれた学校のグラウンドよりは幾分かマシとは言えども、外は少なからず花粉が飛んでいる。奈津子のアレルギーがどのくらいひどいものかはわからないけれど、アレルゲンに触れないに越したことはない。
 奈津子はジャージのポケットからティッシュを取り出すと、ひと目をはばからずに思い切り鼻をかむ。女の子なんだから少しは恥じらいをだな。
 そして、再びポケットを漁る奈津子。少し期待が高まる。実は今日も着けてくると期待していたんだ。昨日あんなことがあったばかりだし、もしかしたらってね。けれども、待っていたのは素顔の奈津子。少しだけ、少しだけね、がっかりしたんだよ。誰が悪いわけじゃないけれど、現金なものなんだよ男なんて。
 そんなことを考えるキッカケとなった、昨日の情事寸前の出来事を思い出す。蛇腹をいっぱいまで広げられた奈津子のマスク。運動後の汗と吐息がいっぱいに染み込んだマスク。周囲からも際立つ医療用の青いマスクは、奈津子の目の下からあごまで凶悪なくらいにすっぽり覆ってしまって、顔がほとんどわからない。まるで表情を奪ってしまうかのようなマスク。
 それが自分の眼前で、呼吸に合わせて風船のようにべこんべこんと収縮を繰り返す。マスクに染み込んだにおいや吐息の熱が伝わるくらいの距離。目の前でいたずらっ子が挑発するかのように、わざとマスクをぺこぺこさせていた奈津子。 
 熱に浮かされたような感覚のなかで奈津子のマスク越しの頬に触れて、吐息で湿って恥ずかしい染みのできたマスクの口元に唇を重ね合わせようとした瞬間に……。
って、やばいやばい、思い出してきただけでまずい。

「ねぇ、聞いてる?」
「うべおぁっ!!!」
 よこしまな妄想にふけっているうちに、いつの間にか奈津子が目の前に来ていたようだ。女子特有のシャンプーのいい匂いに若干の汗の匂いが交じる。
「えっ?なんの話だっけ?」
 運動後だからか、奈津子の顔は少し赤みと光沢を帯びている。顔のテカリを嫌う女子も多いけれど、男からすれば艶かしく感じてしまう。
「ねぇ、ちゃんと聞いてた!?」
 腰に手を当てて、少し不機嫌に言う奈津子。顔にマスクはしていない。あぁ、今日はマスク姿が見られないのだ。自分の中で勝手にそう結論づけて、少し投げやりに答えてしまう。
「はいはい聞いてた聞いてた。で?なにすればいいって?」
 奈津子の眉間にシワが寄る。あぁ、怒らせちゃったか?
「もうっ!だから鏡がないからちゃんとマスクが着けられてるか見てほしいって言ったのっ!!」
えっ?今なんて言った?マスク?ちゃんと?着けられてるか?見てほしいって???この子、なにを言っているのだろう。理解が追いつかない。
「なにぼーっとしてるの?ほら、見るだけだから簡単でしょ?」
 奈津子はそう言って、こちらの答えも聞かずにマスクを取り出す。昨日と同じ濃いブルーのマスクは、透明なパッケージで個包装にされている。奈津子は包装を破くと、表裏を確認して、半分に折るようにして鼻あてに折り目をつける。
 表の濃いブルーとは違って、裏側は普通のマスクと同じく白っぽい色をしている。つまりは、マスクの奈津子の唇に触れている側であって、想像力がたくましすぎるのかもしれないが、なにかいけないものを見てしまった気分になる。まぁ、プリーツタイプのマスクなのだから、厳密に言えば、唇が触れることなんてほとんどないのだが。
奈津子は手慣れたように、片方ずつ耳にかける。そして、改めて鼻あてを鼻筋の形に合わせると、こう問いかけてくる。
「真ん中、ずれてない?」
 少しこもり気味の声。否が応でも彼女がマスクを着けたことを自覚させられる。まだ蛇腹が開かれてない四角い形をしたマスク。マスクの裏に唇が触れているせいだろうか。喋るたびにもそもそとマスクが動く。奈津子は、ちゃんと折り目が真ん中に来ているのか気になるようだ。そんなこといちいち訊かなくても良いだろうに。
「……いいと思う。でも、そういうのって、しっかり着けてからでよくないか?」
「また外して着け直すの面倒じゃん。」
 そう言いながら鼻あてをおさえて、がばっとマスクの蛇腹を開く奈津子。さっきまで横長だった四角いマスクが、目元からあごまですっぽりと顔を覆い尽くしてしまった。人がマスクをつける瞬間のドキッとする仕草。こんなのめったに拝むことは出来まい。奈津子は、マスクの下側の紐をくいくいと引っ張って、微調整をしているようだ。適当なマスクの付け方をしている子が多い中、アレルギー持ちの彼女はしっかりとマスクをフィットさせる。
「どう?おかしくない?」
 フィッティングを終えた奈津子が問いかける。自分でできるところはやりきったのだろう。奈津子のブルーのマスクは、見る限り隙間なくきれいにフィットしている。目元以外の顔がすっぽりと袋状のものに覆われてしまっている。まだ着けたてのマスクは、新品のぱりっとした感じが残っていて、昨日のいろいろと染み込んだマスクと違い、不織布のにおいが強く感じられた。
「……いいんじゃないか?」
 昨日、あれだけ間近で見ていたのに、奈津子のマスク姿を直視するのが恥ずかしくて目をそらしてしまう。それが奈津子には気に食わなかったようで、
「ちょっと、しっかり見てよ。隙間とか出来てない?」
 そう言って、様々な角度でマスク姿を見せてくる奈津子。正面、横、後ろ、上から、下からと、そこまで、そこまで見せる必要あるの!?というくらいに。
 正面はともかく、上から見れば、奈津子の鼻筋にぴったりと寄り添う鼻あてのライン。横からは、プリーツマスクの丸みを帯びた柔らかな曲線が。後ろからは、耳にかかっているマスクの紐。例えば外でね、雰囲気の良さそうな女性を見たときに、後ろ姿でマスクをしているのがわかったときのドキドキ感。そういうのが良いんだ。そして、下から見たときのマスクの膨らみ越しに見下されているかのような視線。これはやばい、やばいよ……。色々と妄想が暴走をはじめそうだ。

「……ねぇ、なんか言ってよ。」
 眉間にシワを寄せて、訝しげな顔をした奈津子。
「大丈夫、大丈夫だから練習もどれって!!」
 暴走しそうな妄想をなんとか振りはらって返事をする。煩悩退散とばかりに、ついつい奈津子を追い払うような仕草になってしまった。
「なにそれ、もういいっ!!」
 そんな返答が気に食わなかったのか、奈津子は不機嫌丸出しに背を向けてコートに歩き出し、ふたたびシュートの練習を始める。また手持ち無沙汰になってしまった。仕方がないので、また奈津子の練習をぼーっと眺める。これでは逆戻りだ。さっきのは奈津子なりのアピールだったのだろうか。でも勘違いだったら……。それとも、自分に勇気があったら、なにかがはじまったのだろうか。うじうじしている自分が嫌になってくる。はぁ、俺はこんなところでなにをしているのだろう。そもそも今日出てくる必要あったのか?そんな疑問すら湧いてくる。
「はぁ……はぁ……っ!!」
 何度もシュートを繰り返す奈津子。けれども、心の乱れがあるのか、先ほどと違って全然シュートが決まらない。新品感が強かったマスクも、だんだんと湿り気を帯びているのか、徐々に呼吸に合わせてぺこぺこと動き出すようになってきた。
 それでも、なにかと戦うように一心不乱にシュートを繰り返す奈津子。肌から滴り落ちる汗。
「あーっ!!!」
 叫び声とともにがむしゃらに放った一投は見事にはずれ、奈津子はそのまま地面に仰向けで倒れ込む。限界まで動いたのか、奈津子の胸が呼吸に合わせて大きく上下している。そして、奈津子の顔を凶悪なまでにすっぽりと覆っているマスクは、べこん、べこんと激しく収縮を繰り返している。

 そんな奈津子に掛ける言葉もない。静かにそっと立ち上がると、彼女に気づかれないように、そっとその場をあとにする。そのときはもう背を向けていたから気づかなかった。仰向けになった奈津子が悲しそうな目でこちらを見ていたことに。