マスクをしたひとりの女性が歩いている。
春先のこの時期、決して珍しい光景ではない。
花粉症なのだろうか、不織布の蛇腹のマスクは目元から顎まですっぽりと覆っていて、症状がつらいのだろうか、ときどき眉間にしわを寄せては顔を歪ませている。
その光景が妙に庇護欲を刺激して、愛おしさを超えて、少し、いじわるをしたくなってしまうほど。
「んっ……んむっ……。」
花粉症とは似ても似つかぬ、少し熱の帯びた吐息が聞こえる。
ときどき立ち止まって。不自然に空を見上げたり、目をつぶって首を激しく振っているが、そこから何かを想像する術はない。
やけに足早に歩いているところを見るに、約束の時間が差し迫っているのだろう。
「はぁはぁ……アッ……はぁはぁ……。」
息を荒くしているせいか、蛇腹のマスクは、風船のように激しく膨らんだり萎んだりを繰り返していて、
見た目から感じる息苦しさをより際立たせているように思う。
鼻水とくしゃみがとまらないのか、マスク真ん中の部分に、お漏らしをしたかのような丸い染みができている。
替えのマスクを持っていないのか、はたまた、マスクを替える余裕が無いくらいに急いでいるのか、
理由は定かではないが、彼女はそんなマスクをつけたまま足早に通り過ぎてゆく。
やがて彼女は、奥まった路地の小さな喫茶店へと姿を消していった。

「いらっしゃいませ。」
喫茶店ヘ入ると、女性は、店員に向けて指で1の数字をつくると、足早に店の奥へと進んでいった。
こういう小さな喫茶店は、混んでいる時以外はわざわざ席案内などせず、好きな場所に座ってもらうスタイルが多い。
少々焦り気味なところ以外は、特に違和感なく、店員も気に留めてないようだ。

「遅かったね。少し待ちくたびれたよ。」
男性は、柔和な笑みを浮かべ、少しからかうかのように、女性に言葉をかける。
歳は女性より少し上くらいだろうか。
女性は、歩みの勢いを緩めずに、ドンッと、音をたてて男性の向かい側に座ると、
恨めしさの感情を込めるように、男性をにらむ。
「そんなに僕に熱い視線を送り続けないでくれないかな。少し恥ずかしいじゃないか。」
相変わらず、茶化すように男性は言うが、女性は息を荒くして、男性を睨みつけるばかりだ。

「ご注文はお決まりですか?」
店員がお冷とおしぼりを持ってくると、そのまま注文をとりはじめる。
「僕と同じものをお願いします。」
特に女性のほうに意見を聞くことなく、早急に注文を済ませてしまうと、もういいですよ、と言うが如く、目線を外す。
女性は、ここまでひとことも言葉を発していない。
「……飲み物がきてからにしようか。」
男性は、さっきからずっと恨めしそうに睨み続ける彼女にひとことそう言うと、
コーヒーを一杯啜り、読みかけの文庫本に目を落とした。

「ごゆっくりどうぞ。」
彼と同じ琥珀色の飲み物を運んでくると、店員はそう言って戻っていった。
「さてと……。」
彼はそう言うと、彼女の肩が一瞬びくっと動く。
「はずしていいよ、それ。」
彼女は黙って頷くと、マスクのヒモに手をかけて、ゆっくりと慎重に顔から外す。
マスクを外したら彼女の素顔が出てくるはずなのだが、そこに広がる異様な光景に驚きを隠せない。
口には、穴の空いたゴルフ練習用のボールが噛まされており、
それが紐ではずれないように固定されていたのだ。
これは、SMプレイなどで使われる玉口枷、またはボールギャグと呼ばれるもので、防声具としての役割よりも、涎がとまらなくなることによる羞恥心を煽る目的が大きい。
勿論、今回も例外ではなく、外したマスクとボールギャグの間に唾液の糸が繋がっており、
きっと、マスクの中も涎でぐちゃぐちゃになっているのは想像に容易い。
「んっ……じゅるる……。」
涎が落ちないように思わず息を吸うと、いやらしい音をたてて、唾液のすすられる音が響き渡る。
彼女は、羞恥心に顔を赤らめると、そのまま、耳にかかっているゴムひもを外す。
「ぷはぁ……あー、つらかった。顎がしびれちゃってうまく喋れないわよ。」
彼女の口からボールがはずれ、幾らかの時間ぶりに開放される。
ボールが口から離れる瞬間、糸を引いていた光景が妙にいやらしい。
「まったくもう、口の周りがよだれまみれじゃない!!」
ボールギャグをマスクの上に置くと、彼女はおしぼりで、口の周りについた涎を拭き取る。
「ほんと、何考えているのよ、あんたは……。」
彼女は、乱暴にコーヒーをすすると、男を再び睨みつける。
「いやぁ、スリルあったでしょ?
いつ気づかれるかとか、気づかれてしまった時の周囲の反応とか、
もう、考えただけでもドキドキしてきちゃうね、僕は。」
「あんた、実際にやってないでしょうが!!」
彼女が言いたい気持ちはよくわかる。
彼女がボールギャグを大きなマスクで隠しながらこちらへ向かっている最中、彼はずっと、この店で文庫本を読みながらコーヒーをすすっていたのだから。

「さてと、じゃあ話を聞かせてもらおうか。」
「……話すことなんてないわよ。」
さっきまでの勢いはどこへやら。
彼女は、コートの裾をつかんで、少し赤面しながら彼を見る。
「う~ん?だって、ここまで来るまでに色々あったでしょ?
まぁ、なにもなかったからここまで来れたのかもしれないけどね。」
そう言って、彼は、おもむろに机の上のマスクとボールギャグをたぐりよせると、そのまま顔に近づけた。
「うっわ、べちゃべちゃじゃない。
こんな状態で外歩いてきたの?
これだけ濡れてたら歩いている人から丸わかりじゃなかった?」
「なっ、何してんのよ変態っ!!!」
店の中で大声を出してしまったに気づき、ハッと我に返る彼女。
「お客様、どうかなさいましたか?」
さっきの店員が、少し警戒心を持ってこちらにやってくる。
「いっ……いえ、なんでもないです。ちょっと感情が高ぶっちゃって……。」
「……そうですか、なにかございましたら遠慮なくお申し付けください。」
「じゃあ、コーヒーのおかわり持ってきてもらえますか?ちょうどなくなりそうだったので。ついでに、少しお腹が減っているので、この、トーストとサラダとスープのセット……2つ、お願いします。」
一瞬彼女のほうに視線を向け、頷いたのを確認すると、注文を終える。
「かしこまりました。」
彼の、あまりにも平然とした対応に、すっかりその警戒心は和らいだようだ。
いつの間にかマスクとボールギャグも見えない位置に隠されており、その手際の良さに、少しため息が漏れる。
「ほら~、いくらこの席が死角だからって、そんなに大きな声を出したら気づかれてしまうよ?」
「ごっ……ごめん……って、なんでわたしが謝っているのよ……。」
「……まぁいいか。これから愉しめばいいんだし。」
「えっ?なにが??」
彼が小声でつぶやいたことは、彼女の耳まで届かなかったようだ。
「なんでもない、こっちの話。」
「……あっそ。」
「ひとまず、軽く腹ごしらえしようか。」
「…そうね。」
彼女と彼の戦いは、食事のためにいったん休戦となった。

「ごちそうさま。」
「はい、おそまつさま。」
「……あんたが言うことじゃないでしょうに。」
どうも、この男は飄々としていて掴みどころがない。
正反対な性格でも、なんだかんだお似合いだとは思うが、それでも、それ以上に、この男と一緒にいるのに大きな理由があるのだろう。
人様の事情など、そう簡単に伺い知れるものでもないが。

「さぁーて、行こうか。その前に……これをつけようか。」
「えっ?また!?」
彼が差し出したのは、さっきのボールギャグ。
「……どうしてもつけなきゃだめ?」
「うん、だめ。」
彼女は、赤面しながら上目遣いで彼を見つめてかわいくお願いするが、何事もなかったかのように、彼はそれをバッサリ切り捨てる。
「う~っ……わかったわよ。」
彼女は、しぶしぶ穴の空いたゴルフボールを口にくわえると、伸縮性のあるゴムひもをマスクのように、耳に引っ掛けた。
こういうものの多くは、ベルト式で首の後ろに固定するものだが、すぐにずれてしまうがために、それを嫌った彼は、耳掛け式のものを好んで使っているようだ。
彼女の顔には少しきついのだろう、ゴムひもを少し頬に食い込ませて、柔らかそうな頬肉が強調されている。
「まふふは?」
こんな状態で外を歩けるはずがないので、彼女はマスクを要求する。
「ちょっと待ってね~……あったあった。」
「!?」
彼が取り出したのは、さっきまでつけていた不織布の蛇腹マスクではなく、白い正方形の形をした薄い布切れ。
両側に耳を入れるであろう切れ込みが入っていることからも、その異質な布切れは、きっと、マスクなのだろう。
驚いて固まっている彼女の口に、そのマスクっぽい布切れを押し付けると、耳に固定すべく、両側に大きく引っ張った。
「んんっ、んむんっ!!」
マスクは、まるでタイツのように伸縮し、彼女の顔にピタリとはりついた。
それは、鼻と唇の輪郭をくっきり浮き上がらせるくらいに密着していて、マスクの下で噛み締めているボールギャグの形を、丸く浮かび上がらせている。
「さぁ、今度はこれで外を歩くんだ。」
彼はとんでもないことを言っている。
さっきまでつけていたマスクは、下にボールギャグを噛ませているとはいえ、それをしっかり覆うほどの厚さと空間があった。
しかし、今回のものはどうなのか。
きっと、ボールギャグを噛ませていなくても、鼻と唇の形がくっきりとわかってしまうほどに密着してしまうのだろう。
その上、ボールギャグを噛まされているとなると、それも間違いなく、くっきり見えてしまう。
「いひゃ、いひゃよいひゃよ!!」
「ほら、騒ぐとまた店員さん来ちゃうぞ?」
言葉にならない言葉で、イヤイヤをするように首を振るが、
彼のそのひとことで彼女は黙ってしまう。
「まぁいいや、ひとまず君には精算をしてきてもらおうかな。」
そう言って、彼は彼女に10,000円札を渡す。
敢えて万札を渡すところに、彼のいじらしさを感じてしまう。
「いひゃや……。」
少し涙目になりながらも、うつむく彼女の口には、マスク越しにしっかりと噛まされたボールの陰影が浮き出ており、
その穴の形までわかるくらい。
そして、その穴から、無情にも一本の涎の糸が、ツツーっと音をたてるがごとく、したたり落ちた。
「ほーら、はやく行った行った~。」
そんな彼女の気持ちにもお構いなしに、妙に楽しそうな彼。
強引に背中を押され、彼女は後ろ髪引かれる思いで、会計へと向かっていった。