「じゃあ、明日からそのマスクをつけて過ごしてみよう。」
 スクールカウンセラーさんから渡されたマスク。リハビリ的な意味で、徐々に弱いものへと変えていくってことだけど、これじゃ、逆に恥ずかしさを煽るだけじゃないだろうか。それでも相談した手前、無下に断るわけにもいかない。もう、覚悟を決めるしかないのか。

「そういえば、ゆっこって最近ずっとマスクしてるよね。食事をするとき以外とらないしー。」
「えっ?そっ、そうかなぁ。でもほら、今の時期だったら花粉症でマスクをしている人も少なくないし、そんなにおかしなことじゃないでしょ?」
「でも、ゆっこ花粉症じゃないじゃん。春休みに遊んだときはしてなかった気がするしー。」
「そっ、それは……。」
「まぁ今は、だてマスクってのも珍しくないし、あたしだって、ノーメイクの時はマスクで隠して出かけるもん。おかしなことじゃないけどさー。」
「……うん。」
「でもさぁ、さすがに体育の授業のときまでつけてるなんて、苦しいでしょー。体調崩してるのなら仕方ないけど、それなら見学してればいいじゃん。」
「……。」
「……まぁ、ゆっこになにがあったかわからないけどさ、言いたくないなら無理に聞かないし。でもね、悩みがあるなら相談してよ?友達なんだから。」
「……うん。」
「あー、暗い暗い。しみったれた気持ちでいても仕方ないし、この話はおしまい!行くよ~。」

 ある日の友達との会話。ゆっことは、わたし、黛ゆうこのあだ名。そして、今風の女子高生みたいなしゃべり方で相槌を打つのが、筧朋美。あだ名は特になし。今は4月の後半。春と呼ぶにはちょっと遅く、初夏には少しはやい気がするこの時期。朋美の言うとおり、わたしは、飲食のとき以外はマスクをつけたままで過ごしている。勿論、体育の時間もとらない。そんな日が一週間以上続いたある日、何気なく、そう問われた。
 だてマスクをする理由は様々だと思う。朋美の言うように、ノーメイクを隠すためだったり、あとは口元が守られている感じが安心したり、あるいは、風邪かなにかで長時間マスクをしたことで、自分の素顔を晒すことが恥ずかしくなってしまったり……。わたしの場合は、しいて言えば、最後の、自分の素顔を晒すことが恥ずかしいってことになるのかな。原因は、たまたま聞こえたクラスメイトの男子の会話。

「……なぁ、黛の唇ってエロくね?」
「あー、わかるわかる!あのぷっくりとした感じの唇だろ?ありゃやばいよなぁ。」
「締まった系の薄い唇も悪くないが、キスされるのなら、ああいうぼってりとした肉厚なのがいいよなぁ。」
「おまえら同級生をそんな目で見てたのかよ……。でもわかるわぁ、アンジェリーナ・ジョリーみたいだよなぁ。」
「そうそう、あんないやらしい唇さらして歩いてんだから、もーうたまらんって感じさぁ!!」

 下世話な男子の会話。女子の前でも堂々とそんなことを言って、朋美みたいな気の強い子にたしなめられているけれど、そんなの日常のひとコマで、珍しい光景でもない。わたしのことだって、以前にも、そういう対象として話題に出されたことがあるけど、特に気にしたことはなかった。経験が多いほうではないけれど、そっちのほうに興味が無いわけじゃないし、気になっている男子にそういうことを噂されるのに、悪い気はしない。
 でも、胸とか脚とかを言われるのはなんともないのに、唇のことを言われたら、凄く恥ずかしく思えてきて、男子たちの会話の途中で、唇を隠すように手で押さえながら、その場から逃げるように立ち去ってしまった。確かに、わたしは色々なところが人より少し肉付きがいいかもしれない。けれど、まさか唇をそんな風に見られていたなんて思わなかった。男の子と激しいキスをしたいと思うし、その先だって想像したりする。けれども、胸や脚や、そういうわかりやすい部分ならまだしも、唇にそんなに意識を向けられていたなんて、まるで気付かずに恥ずかしいところを丸出しで歩いていたような気分。そういう喩えをすれば、気づいてしまった時のわたしの恥ずかしさが少しはわかってもらえるかもしれない。
 わたしは、息も切れ切れにトイレに駆け込むと、そのまま洗面所の鏡を見る。うつっているのは、少し赤みを帯びた、いつもどおりのわたしの顔。そのはずなのに、肉厚だと言われた唇を見た瞬間、恥ずかしさに下を向いてしまった。そのまま急いで教室に戻ると、なにかのとき用にと、鞄の中に入れていた使い捨てのマスクをとりだしてそのままつけた。唇がマスクで隠された安心感から、興奮と熱がスーッと冷めてゆく感じがした。その後の授業は、ずっとマスクをつけて受けたけれど、朋美をはじめとした友人たちにちょっと心配されたくらいで、何事も無く一日を乗り切った。噂をしていた男子たちは、自分たちの話が聞かれたのかもしれないと、バツの悪そうな顔をしていたけれど、あんたたちのせいなんだから同情はしてあげない。
 翌日くらいには、このほとぼりも冷めるだろうと思っていたけれど、翌日になっても、マスク無しで外に出ようとすると、顔が火照ってしまってダメだ。長年一緒に過ごした家族の前では、なにごともなく過ごせるから、それ以外の人、特に異性に見られていると思うと、恥ずかしさがこみ上げてくるようだ。マスクをして出かけるわたしを見て、母は、風邪をはじめとした病気を心配したけれど、最近、黄砂がひどいから予防でつけることにしたと言ったら、あら、そう、わたしも気をつけなくちゃ、と返され、それ以上何も言ってこなくなった。あれから一週間以上過ぎたけれど、家族は、わたしの抱える悩みには気づいていないようだ。
 マスクをつけ始めて一週間以上過ぎると、それが当たり前のように馴染んでしまって、腫れ物に触れるかのような対応はすっかりなくなった。最初は、バツの悪い思いをしていた男子たちも、なにごともなかったかのように、下世話な話に花を咲かせてはお咎めを受けている。ただ、やっぱり負い目があるのか、わたしに限らず、唇がどうだという話はめっきり聞かなくなった。平静を装いつつも内心気を遣われているように感じることに、少し息苦しさを感じたし、さっき、朋美に心配されたこともある。そして、なによりわたし自身が、マスクに依存してしまっている状態が自分でもよくないと感じている。要は、マスクなしで過ごせる以前の自分に戻りたいと思っているのだ。わたしの学校にも、スクールカウンセラーなる人がいるらしい。らしい、と言うのは、わたし自身、大人に相談しなくちゃ解決できないほどの悩みがなかったので、ただ縁がなかったということ。でも、今回は、デリケートな話題だし、そのスクールカウンセラーさんに頼ってみようかと思う。

「なるほどねぇ、男子のうわさ話を聞いちゃって、マスクがはずせなくなったのねぇ。」
 そう言って、うんうんと頷く女性。うちの学校のスクールカウンセラーで、瀬古さんと言う。大学院を出て4年目と言うから、28歳くらいだろうか。大人の色気というより、明るくちょっと天然の入った感じの人だ。
 わたしは、おおよそ上で書いた内容を、かいつまんで説明した。
「で、黛さんとしては、マスクなしで元の生活を送れるようになりたいのね?」
「はい。自分でもどうしたらいいのか、ずっと考えていて、それでも解決策が思いつかなくて……。」
「う~ん、マスクを外せないかぁ。今までそういう事例にあったことないからなぁ……。」
 あごに手をあて、ときどき首をかしげつつ考える素振りを見せる。少し不安だ。
「黛さんは、唇を見られるのが恥ずかしいからマスクをしているのよね?」
「……はい。」
 改めて人に指摘されると、マスクをしていても恥ずかしく感じる。
「あー、じゃあさ、少しずつマスクのない生活に慣らしてゆくのがいいね!うん、そうしよう!!」
 何かを思いついたように、目を輝かせ、拳で掌をぽんっと叩く瀬古さん。そんな事する人久しぶりに見ました。
「えっ?」
「じゃあ、わたし、準備があるから帰るね~!申し訳ないけど、相談室の戸締まりをして鍵を職員室に返しといてねー!!」
「はぁ……。」
 有無をいわさず、勢い良く出て行ってしまった瀬古さん。この人、本当にカウンセラーなのだろうか。
「あっ、ごめん言い忘れてた。明後日にでもまた来てくれるかなー?」
「……はぁ。」
 勢いについて行けず、生返事になってしまう。
「じゃあよろしくねー!!」
 ばびゅーん!という擬音が聞こえてきそうなほどに、勢い良く出て行った瀬古さん。あの、あなた、まだ相談時間終わってないですよね?大丈夫なの?

 そして翌日とんで、翌日。
「黛さーん、待ってたよー!!」
 カウンセラー室につくと、この間と変わらない、キャピキャピとした瀬古さんの姿が。
「あの、この間は大丈夫でしたか?」
「えっ?なんのこと?」
「あの、まだ相談時間終わってないのに、相談室閉めちゃいましたよね?」
「あーあれね!教頭先生にこってり絞られちゃった。きみ、これで何度目だ!!って。」
 やっぱり……。教頭先生が顔を真っ赤にして怒っている姿が目に浮かぶ。
「あーでもね、君は評判はすごくいいんだから、もう少し落ち着きを持ちなさいだって!!ほら、わたし仕事できるから!!」
 そう言って、腰に手を当てふんぞり返ってドヤ顔をする瀬古さん。どうしてそういう解釈ができるのだろうか。
「そうそう、そんな話はいいんだけどね、ほーら、手に入れてきたよー?これ。」
「……はい?」
「いやいや、ほら見てよ見て?マースークっ。」
 四角い箱のなかから、鈍い銀色をした、無地のサラサラとした袋をひとつ取り出すと、わたしに手渡す。
「これが……なんですか?」
「だーかーらっ!マスクだってマスク!!黛さんには、明日からそのマスクをつけて過ごしてもらいますっ!!」
「えっ?マスクをとりたいのにマスクをつけるんですか?」
「ノンノン、ゆうこちゃんはわかっないねぇ~?」
 そう言って、瀬古さんは、ちっちっちと指を振る。少しイラッとした。
「これはねぇ、普通のマスクとは違うのだよぉ。」
 う~ん、何が違うのか全く見当もつかない。
「あー、口で説明するより実際に見たほうがはやいよねー。」
 わたしの疑問を浮かべた表情を感じ取ったのか、瀬古さんはそう言って、袋の封を破り、中から1枚の長方形の布切れを取り出す。少し青みを帯びた白いその布は、まるでシルクのようにきめ細やかで、紙のマスクなんか比較にならないほどペラペラで薄いように見える。耳を入れる穴のようなものが両端にあることで、それがかろうじてマスクであるということがわかるくらいだ。
「これね、新素材で作られたマスクなんだよー。形状記憶で顔にぴったり張り付くの。ほーら、それに凄く伸びるんだよー?」
 そう言って、瀬古さんは、マスクであろうものの両端を思い切り引っ張る。千切れそうなくらいにのびたそれは、力を緩めると、なにごともなかったかのように、元の形に戻ってしまう。生地がのびて、だるんだるんになることなく、開けた瞬間の、新雪のような佇まいを維持している。
 わたしは、瀬古さんがどうしてこのようなものを用意したのか、真意をはかれずにいる。ただ、今までの常識では考えられない生地の動きに、目を奪われていた。しかし、そんな疑念も杞憂に終わることとなる。これから見る衝撃的な光景に目が奪われるとともに、自分がこれから挑むこととなる試練の恐ろしさに慄いてしまうのだから。
「じゃあ、わたしがつけるから見ててねー?」
 瀬古さんは、マスクの真ん中を鼻と唇の中心に押し当てると、そのまま両手で左右に引き伸ばして、両耳に引っ掛けた。
「……どう?」
 乱れた髪を首を振って払いのけると、瀬古さんは顔をあげてこっちを見る。さっきまで素顔だった瀬古さんの顔半分は、さっきの白いマスクで覆われており、マスクの薄さと、形状記憶生地のせいだろうか、顔の輪郭をはっきりと浮かび上がらせていた。苦しそうにマスクを押し上げる鼻と、ぷっくりと浮き出た唇。その非日常的とすら思える光景に、完全に目を奪われてしまった。なんだろう、こんなドキドキ、はじめてかもしれない。
「黛さんには、これからこのマスクをつけてリハビリに励んでもらいます!!」
 悪巧みを思いついた子供のように、少しいやらしい笑みを浮かべる瀬古さん。普段のわたしなら嫌な顔のひとつでもするのだろうけれど、瀬古さんが喋るたびに動く、マスク越しの唇に目を奪われて、それどころじゃない。笑った時ですら、マスクがその形に合わせてぴったり動いて、まるでスライムみたい。そして、それがわたしの中の何かを気持ちよく刺激する。
「……おーい、ゆうこちゃーん、聞いてるー?リハビリの説明してもいいかなー?」
「はっ、はいっ!ぼーっとしてましたっ!!」
「そんなに取り乱すなんて、ゆうこちゃんらしくないね~。まぁ、難しいことじゃないから、気楽に聞いてよ。」
 いつの間にか黛さんじゃなくて、完全にゆうこちゃんって呼ばれてしまっているが、まぁそれは今更どうでもいい。
「で、ゆうこちゃんにはこのマスクをつけて、リハビリに励んでもらいますっ!!」
 デデーン!という効果音が聞こえてきそうなくらい、大きなアクションをとって、指をさす瀬古さん。……この人、絶対に運動神経にぶいだろうな。
「まぁ、今しているマスクをこれに変えて過ごすだけだから、特に難しいことはないよ?あとは、ゆうこちゃん自身がどうやって自分の心に折り合いをつけられるか、だからね。あくまでこれは、補助的なものであって、それをどう解決に導くかは、ゆうこちゃん次第だよっ!!」
 ……わたし次第か。
「さっきも言ったけど、そんなに気負わずに、ゆっくり慣れていけばいいから。気が向いたら、自分の心と向い合うって意味で、ノートに思っていることを書き出してみるのもいいと思うよ?体裁なんか考えずに思っていることを、とにかく思いのままにね。それを見返すことで、自分の考えがうまくまとまることだってあるんだから!!」
 テンション高めに、身振り手振りを入れて大げさに説明する瀬古さん。
「……あの、でも、そのマスク少しぴっちりしすぎじゃないですか?鼻と唇の形がはっきりとわかりますよ?まだ鼻はいいんですけど、マスクをしていても、唇の形がわかってしまうと、ちょっと無理だと思うんですけど……。」
「ゆうこちゃんわかってない!わかってないよ!!だからいいんじゃない!今回の原因が、自分の唇にあるのなら、、まずはその唇と向かい合うことが大切!!ゆうこちゃんさ、きっと唇を隠せるのなら、マスクじゃなくてもよかったと思うよ?だから、この問題を解決しない限りは、根本的な解決につながらないと思うんだよ!!」
 相変わらずテンション高く力説する瀬古さんだが、言っていることは理解できる。わたしが唇に対するコンプレックスを解消しなければ、それ起因の別の問題が起こる可能性があるってこと。それより、さっきから熱弁している瀬古さんは、勿論マスクをつけたままで、鼻も唇もマスク越しにくっきりと浮き出た状態で喋っている。当然、喋るたびに唇の動きに合わせてマスクが動いている。それどころか、時間がたつにつれ、唇のあたりに赤い色が浮かんできているのだ。ひととおり喋り終わった今となっては、はっきりと唇の形にうっすらと赤い色が見てとれる。マスクにキスマークが浮き出ているとでも言ったらわかりやすいだろうか。普通じゃ目にする光景じゃないけれど、凄く扇情的で、また、頭がぼーっとしてしまう。
「おーい、ゆうこちゃーん?今日はやけにぼーっとするねぇ。」
「はっ、はいっ!ごめんなさい……。」
 瀬古さんに再び呼ばれて正気に戻る。
「ゆうこちゃん、普段は落ち着いた感じなのに、なんか、かわいいね。食べちゃいたいくらい。」
 最後のほうがよく聞こえなかったが、自分の隠れた部分を指摘されたようで、ちょっと照れてしまう。
「じゃあ、明日からそのマスクをつけて過ごしてみよう。」
「えっ?本当にやるんですか!?」
「あたりまえだよぉ、ワタシ、ウソイワナイ。」
「……わかりました。明日から登校のときにつけてきます。」
「約束だよぉ?わたし、毎日これないけど、わたしがいない時にずるしたらだめだよ?もし、そんなことしたら……。」
 RRRRRR………
 会話の途中に突然鳴り響く電話の呼び出し音。部屋に備え付けの電話機にかかってきたようだ。
「はい、相談室です。はい、はい、えっ?今すぐにですか!?はい、はい、えぇ、もうすぐ終わりそうなんで、えぇ、はい、わかりました、すぐに向かいます……。」
「……電話、急ぎの用事なんですか?」
「……そうみたい。すぐ戻らなきゃ。ごめんね、急がせちゃって。」
「いえ、大丈夫です。お話きけましたし。」
「……そう?でも、しっかりやらないとだめだからねぇ?」
 そう言って、マスクに手をかけはずす瀬古さん。
「ああああああああああああああっ!!!!!」
 突然悲鳴を上げる。
「どっ、どうしたんですか!?」
「口紅塗ってたの忘れてたぁ……。どうしよう、今日、お化粧道具持ち歩いてないやぁ。」
 ふにゃふにゃと崩れ落ちる瀬古さん。机に無造作に置かれたマスクには、口に触れていた部分にべったりと口紅がついている。うわぁ……なんかエロい。
「あーもう、急用が入ったせいでなにもかも滅茶苦茶よぉ……。」
 推定28歳、一回り下の学生の前で情けない姿を晒す。
「う~ん、一度家に帰ってから出直したほうが良さそうかなぁ。そうなると、急がないと間に合わないかぁ。ごめん、ゆうこちゃん悪いけど、また戸締まりして鍵を職員室に返しておいてくれないかなぁ。教頭先生に捕まると、話が長くて遅れちゃうかもしれないからさぁ。」
「……わかりました。気をつけて帰ってくださいね。あと、色々とありがとうございました。少し恥ずかしいけど、わたし、頑張ってみます。」
「うん、がんばってねぇ。じゃあ、わたし行くから……。」
 魂が抜けたかのように、うなだれて肩を落としてよろよろと部屋を出てゆく瀬古さん。この前の勢いは完全になくなって、まるで別人だ。
 さて、机の上には、瀬古さんの置いていったルージュがべったりついたマスク。わたしは別に、そういう趣味はないはずだけれど、この時は熱に当てられていたのだろう、マスクにゆっくりと手を伸ばす……。
「あーっ、ゆうこちゃ~ん?机の上にわたしのつけたマスク置きっぱなしになってるけど、口紅べったりで汚いし、よかったら足元のゴミ箱に放り込んでおいてくれないかなぁ。机の上のテッシュ使っていいからぁ。汚いことさせちゃってごめんねぇ。」
 びくっ、と体が動く。後ろを振り返ると、扉を掴んで今にも死にそうな目でこっちを見ている瀬古さん。
「……わかりました。瀬古さん、そんなことやってると、遅刻しますよー?」
「!?そっ、そうだったああああああああっ!!!」
 瀬古さんは、さっきまで半分閉じかけていた両目をカッと見開くと、一目散に走り去ってしまった。よかった、わたしも変な趣味に目覚めるところだったかもしれない。あそこで瀬古さんが再び現れなかったら、もう二度と元に戻れなかっただろう。そういう意味でも、瀬古さんに感謝しなきゃね。
 わたしは、瀬古さんの使ったルージュのべったりついたマスクをティッシュで丁寧に包むと、そのまま自分の鞄の中へとしまった。

……続くかも?