会計カウンターに立つ彼女は、マスクをした口元をハンカチで押さえている。
マスクの下には、ボールギャグが噛まされており、開きっぱなしになった口からは、止めどなく涎が溢れてきている。
ボールギャグの穴すらもわかってしまうほどの、ぺらぺらのぴっちりしたマスク。
その口周りは、きっと、涎のシミでおもらしをしたかようになっていることだろう。
それをハンカチで隠すこと。彼女にできるせめてもの抵抗。
「フーッ、フーッ……。」
ボールギャグの穴から漏れる息が、そんな音をたてている。
決して息苦しいわけではないが、普段と同じように息をしてしまっては、出っ張ったボールの穴から唾液がこぼれ落ちてしまう。
だから、少しでも上を向いて、口の中にたまった唾液を吸うように呼吸をする。
もちろん、効果があるかなんて定かではない。
それでも、口から唾液がこぼれないようにと抵抗するさまは、妙に嗜虐心を刺激されるのだ。
「お会計ですね、ご一緒でよろしいでしょうか。」
彼女は、口にハンカチを当てたまま、頷く。
「それでは、トーストセットCが2点……」
店員さんがレジを打ち込んでいる間、彼女は、口から止めどなく溢れてくる唾液を、下を向いてハンカチで押さえている。
上を向けば問題はある程度解決するものの、マスクに浮き出たボールギャグをハンカチで押さえつつ上を向いているさまは、はたから見れば怪しく、逆に目立ってしまう。
一応あんなぺらぺらでもマスクはしているし、下を向けば、なにかの症状で苦しいんだ程度で済まされる。
その代償として、ボールギャグから溢れた唾液が文字通り垂れ流しとなってしまうが。
「お会計、3,500円になります。」
「うっ?」
彼女は思わずうめき声をあげてしまう。
ボールギャグを噛まされているせいか、その声はちょっと間抜けに聞こえて、彼女は思わず赤面してしまう。
それより問題は、どうやって口元からハンカチを外さずに財布からお金を取り出すかだ。
財布からお金を出そうとすれば、どうしても両手が必要になってしまう。
しかし、怪しまれること無く片手で取り出すことなど不可能に近い。
結局、諦めてハンカチをずらすしかないのだ。
しかし、口元を覆っているハンカチは、溢れ出る唾液を吸って、その表面にまで染み出してきているくらいだ。
外したらどうなってしまうのだろう。
運良く、自分の姿がうつる鏡はないし、この店だって、彼のなじみなだけで自分は常連ではない。彼女は覚悟を決めた。
彼女は、ハンカチをとるとそのまま上着のポケットに入れ、素早く鞄から財布を取り出すと、彼から受け取っていた1万円札を出す。
「1万円からでよろしいでしょうか。」
頷く彼女。この間も、再びハンカチを取り出すこと無く、マスク越しに丸くぷっくり浮き出たボールギャグを晒している。
唇の端から唾液が垂れる感覚が肌越しにわかって、恥ずかしさに身震いする。
せめて、マスクから唾液の糸がこぼれぬことを祈りながら、止めどなく溢れてくる唾液でマスクを濡らしながら、永遠とも思えるこのときを、早く終わらぬものかと思案する。
「では、6,500円のお釣りになりますが、あいにく、5,000円札を切らしてしまっていて、細かくなってしまいますが、よろしいでしょうか?」
どうしてこういう時に限って……。
彼女は、髪を振り乱すかのように頷く。
とにかくこの時間が早く終わることのほうに意識がいってしまったせいか、そもそもの原因である、マスク越しにボールギャグを晒している現状など、頭から抜け落ちてしまったかのようだ。
「それでは、3,4,5,6千円と……」
お札を数える時間がもどかしい。
はやくこの時間が過ぎ去ってくれないのか。
彼女の頭にはそのことしかない。その間にも、開きっぱなしの口から唾液は溢れ続け、ボールギャグの中に溜まり続ける。
「500円のお釣りになります。」
そう言って、会計皿にお釣りを置く。
いつもの癖で思わず会釈をすると、マスク越しに浮き出たボールギャグの穴から唾液の糸がつつーっと。
「「あっ」」
彼女と店員さんの声が重なる。
彼女は慌てて、釣り銭を財布にしまい込むと、上着から乱雑にさきほどのハンカチを取り出し、口にあてがう。
恥ずかしくて顔をあげられない。
「……花粉症ですか?」
その言葉に、彼女はハンカチで口を押さえたまま顔をあげる。
「この時期は特におつらいでしょう。お客様のなかにも、鼻水が水のように止まらなくなるって方が結構いらっしゃいますよ。」
なおも話を続ける店員さん。
花粉症で鼻水がとまらないのだと勘違いをしたようだ。
善意なのはわかるけれど、こっちは、マスクの下にボールを咥えさせられて涎が止まらないのだ。
一刻も早く、この羞恥地獄から抜け出したいのに、こんなときに限って……。
彼女は、既に涙目だ。
「よろしかったらお使いください。」
 そう言って、ポケットティッシュを3つほど渡される。
「テーブルのほうにはティッシュは常備してありませんでしたから、そのご様子ですと、色々ご不便おかけしたのではありませんか?申し訳ございません。」
彼女は、ハンカチで口を抑えつつ、涙目のまま一心不乱に首を振る。
止めどなく流れ続ける唾液は、既にハンカチを水浸しにしてしまっている。
押さえれば、唾液がしみだしてくるほどに。
とにかく、この空間から一刻も早く逃げだしたい。
それだけが彼女の願いだ。
「……どうされました?お持ちかえりになってくださって構いませんよ?」
彼女はティッシュを受け取って、そそくさとカバンにしまいこもうとしたそのとき、後ろからドンッ!と、誰かに強くぶつかられてしまう。
ちらばるカバンの中身とポケットティッシュ。
「おっ、お客様!?大丈夫ですか??」
「うっ……ううっ……。」
思わぬ事態に、彼女は顔をあげる。
ぶつかられた拍子に口を隠していたハンカチを落としてしまったらしく、ボールギャグの赤い色と形が唾液でベチョベチョに濡れたマスクにくっきりと浮き出た様を、店員さんに見られてしまう。
「あっ……あのぉ……お客様……口が……。」
何が起こっているのかわからず、気が動転している店員さんは、よくわからぬ言葉を口にする。
ボールギャグの赤が、ぶつかった拍子に口の周りが出血して血が付いたように見えたのかもしれない。
しかし、彼女は、その反応を、ボールギャグをピッチピチのマスクで隠して涎を垂れ流している変態な女に思われてしまたと受け取ってしまったのだろう。
そのまま、じーっと店員さんを見つめる彼女。
マスク越しに浮き出たボールギャグの穴から唾液の糸がつつーっと滴り落ちる。
それが合図かのように、彼女の目には涙が浮かび、やがて堰を切ったかのように涙が溢れ、顔がゆがみ、嗚咽が漏れはじめる。
彼女の顔は、涙と鼻水と、口を開かれ止めどなく溢れ続ける唾液でぐちゃぐちゃだ。
「うっ……うっ、うっ…………うーっ!!!」
彼女はそう呻くと、落ちた鞄の中身を拾いもせずに、一目散に店の外へ飛び出してしまった。
「おっ……お客様ぁっ!?」
店員さんが困惑した声をあげるが、彼女はすでに店の外。
「あぁすみません。彼女、僕の連れなんで、荷物は届けますからお気になさらないでください。ご迷惑おかけしたようで、申し訳ないです。」
そう言って頭を下げるのは、彼女をこの姿で会計へ送り出した元凶の彼。
「……いえ、こちらも至らず、申し訳ありませんでした。」
同席していたのを見ていたとはいえ、別の客に忘れた荷物を託すのは非常にリスキーなことだが、彼自身、長く贔屓にしてもらっている客であるし、素性もわかっている。
こうなることまで考えて行動したわけじゃないだろうが、一応、名前と連絡先と、荷物を代わりに受け取ったとの一筆を残して、店を後にする。
「……ちょっとやり過ぎちゃったかなぁ。」
さすがの彼でも、度が過ぎたと感じたのだろう、少し顔をしかめ、頭を掻く仕草をしつつ呟く。
店の床には、彼女の口から零れたであろう、無数の唾液のしみが残っていた。