池内は、日に一度はやってきてこのような仕打ちをしてゆく。今日などはまだマシなほうだ。
飲み物が欲しいか?と聞かれ、持っていた飲みかけを頭からかけられたり、ゴミはゴミらしくゴミと仲良くしろと、ゴミ箱の中身を頭の上でひっくり返されたりと、かけられてばかりだが、枚挙にいとまがない。
掃除用具入れの生乾きの汚れた雑巾で顔を拭かれたときはさすがに殺意が湧いたが、こらえるしかなかった。
周りの連中はなにも言わない。
以前、あまりの惨状に、先生に相談したらどうだと言ってくれた連中もいたが、我が校にいじめはないとばかりに聞き流されてしまった。
池内の家は由緒ある医者の家系で、地域では大変に力を持っているうえに、学校にも多額の寄付をしているらしい。
池内自身も素行は悪いが、家業ゆえにそれなりの成績をおさめているらしく、底辺クラスの生徒とてんびんにかけたらどうなるかは容易だろう。
教師が腑抜けといえばそれまでだが、生徒ひとりを守るために池内家に歯向かえば、今度は自分の生活が危うくなってしまう。
池内の家がどのようなところかは知らないが、自分が同じ立場だったらその教師と同じく、罪悪感に苛まれつつも見て見ぬふりをして知らぬ存ぜぬを貫くだろう。

今こそ標的が僕だけに向いているが、はじめの頃は手当たり次第にからかっては遊んでいたように思う。
勿論いじめには変わりないが、その頃はからかいの程度も今ほどひどいものではなかった。
なぜ僕が標的になったのかは定かではないが、一度、反抗の意を込めて睨み返したのがいけなかったのかもしれない。
バカにしていた底辺に歯向かわれて高慢なプライドが傷つけられたのだろうか。
今では僕を潰すために、強い憎悪の感情を向けているとすら感じる。
そんな、どうにもならない僕の姿を目の当たりにしてきたせいだろうか、周りの連中も、今度は自分が標的にされるのではないかと無視を決め込むことにしたのだろう。
少なくとも、僕に敵意が向いているうちは、自分たちにひどい被害は起こらないのだから。

 

 

その日は昼休みだった。
弁当を食べているなか、池内が例のふたりを引き連れてやって来た。
今までも昼時に現れたことはあったが、昼食をとっているような早い時間帯に来ることはなかったように思う。

「あーくっさ、底辺のドブ料理のにおいがするわぁ。」

我が物顔で教室に入ってくると、池内は、顔をしかめそう吐き捨てる。
いつものように、顔には大きな青いマスク。
そういえばこいつの家は病院。
それゆえにこんなマスクを持っているのだろうか。

「うっわ、キモウチが食ってる、キモい、マジキモイ。」

弁当を食べているだけでそんなことを言われる謂れはない。
反抗の態度を見せるとなにをされるかわからないので、黙々と目を合わせずに食べる。

「ぼっち飯ウケる。トモダチ(笑)いなくなっちゃったのぉ?」

白々しい。
池内が僕を標的にしはじめてから、とばっちりを受けたらたまらんとのことで、随分長いこと僕の周りには人が寄りつかなくなった。
それどころか、池内の来訪を僕のせいにして、恨めしい視線すら向けてくる始末。
それなりに感性の合う仲間だったのに、弱さゆえの絆は本当に脆い。

「あんたらさぁ、トモダチ(笑)が絡まれてるのに、なにもできないわけ?だっさ。さすが底辺クラス。揃いに揃って頭も悪けりゃ根性もない。そうやって一生泥沼におぼれて這いつくばって惨めな人生送ってれば?」

由緒正しい医者の家系の金持ちのお嬢から言われたら、これほどの煽りはないだろう。
視線をあげずに必死に弁当を食べているからわからないが、きっと皆、悔しさに唇を噛み締めているかもしれない。
いや、女帝に屈した腑抜けどもが剥く牙などないか。
こうして自分にすべてを押し付けて見て見ぬふりどころか、恨みの感情すら向けてくるこいつらクラスの連中にも少なからず良からぬ感情が渦巻く。

「で、あんたなに?あたしのこと無視して食ってるの?気に食わないんだけど。」

突然、矛先がこっちを向いた。
ネクタイを掴まれ、無理に顔を合わせられる。
近い。気の強そうな大きな瞳、着崩した服装とは違い、きっちりとつけられたマスク。
その繊維のひとつひとつが見えるくらいに近い。
高そうな香水とシャンプーの香りが女性特有の高い体温にまじり、マスクにこもった吐息の温度がうっすら感じられる。

「っ、なに見てんの?キモウチマジでキモい。近い!離れろ!!」

 そのまま後ろに押し倒される。自分で引っぱっておいて、それはないだろう。

「もう、アッタマきた。」

 池内は、ポケットから薄いゴム手袋を取り出すと、慣れた手つきではめる。
ぱちんという音とともに指先から前腕の半ばくらいまで、ぴっちりと薄い半透明のゴムで覆われる。
マスクと手袋だけ見れば完全に医療関係者だ。
嫌な予感がする。

「それ、あんたのママがつくったの?」

池内が問いかける。……そうだけど。

「底辺らしいみすぼらしさだな。あんたにお似合いだね。」

……。

「……なに?その反抗的な目。気に食わないんだけど。」

池内が近づいてくる。
弁当に手が伸ばされる。

「こんなものねぇ……。」

やめろ……。

「こうしてやるっ!!」

弁当が僕の頭のうえでぶちまけられる。
一生懸命働きながらも少ない時間をやりくりしてつくってくれた母の弁当。
自分はいくらバカにされたっていい。
本当にバカだから。
けども、家族のことをバカにされたら……。

「あっはっは、ゴミがドブ料理にまみれてら!!」

おまえになにがわかる!苦労のくの字も知らないクソお嬢の分際で!!

「シュート!!」

弁当箱がきれいな放物線を描いてゴミ箱に入る。
あれだって母が良かれと選んだものだった。
それをこの女は……。

「いやぁ、加奈子ちゃん、今日も絶好調~♪」

池内は、さっきまでの不機嫌がウソのように晴れやかだ。
このクソアマ……。

「……加奈子、さすがにやりすぎだろ……。」

普段はお調子者の取り巻きその2が、少し困惑した顔をしてつぶやくが、頭に血が上って聞こえない。

「……なに?文句ある?」

歯向かうものには威圧。
それがおまえの家のやり方か。
今まで我慢していたが、もう許せん。
先のことなんて知らん。

ひっくり返された弁当まみれの男が立ち上がる。
俯いて表情はわからない。
因縁の女に、ゆらりゆらりと、気味悪く近づいてゆく。

「……なにあんた、やるの?どうなっても知らないわよ。」

 一歩も引かず、それどころか挑発するようにこっちへ向かってくる。
ゴミを見るような冷たい視線。
さすがは女帝。この程度ではたじろがないか。
だが、暴虐もこれまでだ。おまえを潰して僕も逝く。

「……。」

お互い付かず離れずの距離。次の一歩で決まる。
だが、僕は思わずよろめいて後ろに下がってしまう。
倒れ込む僕を見てほくそ笑む池内。

「ふっ、所詮あんたは腑抜けね。あーあ、あたしに歯向かっちゃって、明日から生きていけないかもしれないわねぇ。あんた、事の重要性に気づいてる?親に言えばあんたの家族ごと路頭に迷わせることなんて簡単なんだから。これだからバカは嫌なのよ。あんたらみたいな汚い底辺一家なんて、河原の橋の下で野垂れ死ねばごぶうううううううううううううっ!!!!!!!!!!!!」

クラスを恐怖で掌握していた女帝のあっけない幕切れ。
池内は吹き飛ばされ、大きな音とともに壁に叩きつけられる。

「がっ、がぁっ、あっ、ああっ、はぁっ、はぁっ、げぶぅっ……。」

衝撃の大きさゆえに呼吸もままならないのだろう、目を大きく見開いて不規則な発作を繰り返す。
こういうときはマスクの息苦しさが命取りになりかねない。
気密性の高い青い医療用のプリーツマスクは、不規則な呼吸に合わせて風船のように激しくべこっ、べこっと収縮を繰り返す。

「ひゅ、ひゅっ、かひゅっ、かひゅーっ……。」

まるで生き物のようにくしゃっ、くしゃっとマスクが激しく動く。
それがまるで血液を送り出すポンプ、否、心臓のようにも見える。青い心臓。
どくっ、どくっ、べこっ、べこっ、ひゅっ、ひゅっ、べこっ、べこっと。
格闘技の心得があるわけじゃないただの根暗。喧嘩が強いわけでもない。
ただ、無駄にでかい身長と重量級の体重を持って全力でぶつかれば、普通の女性ならひとたまりもないはずだ。
怒りに任せて放った加減のない一発が、見事に入ってしまっただけにすぎない。
しかし、格闘技の心得があったら内臓が破裂していた可能性だってある。
呼吸もままならず苦しんでいる池内にかける言葉ではないが、技の未熟さに救われた形だろう。
もっとも、僕はそれ以上にひどいことをされ続けてきたのだからこれだけじゃ済まさない。

……続く?